鹿児島大学教育学部 神田嘉延教授 「薩摩の郷中教育研究の基本視点」より
都城は、薩摩藩のなかで最も大きな郷であり、3万4千石を持っていたのである。都城郷は、他の郷に比べて、大きな領地領民をかかえていたのである。1778年に都城郷の学問所である明道館を領主の邸内に学問所と称して起こし、学校奉行をあてている。この明道館は、1783年に場所を移して、300石を投じて稽古館に名称を変えている。しかし、また、1855年に明道館に名称を変更して、学問に力を入れていく。
明道館は郷の領主が責任ももって学問所を運営していく体制で、校舎も人員も領主の命できちんと配置していたのである。そこでは、学校奉行、副奉行役、学頭指南役、学生等の教員をもって、生徒に習字・算術や読書を教えていたのである。
朝の10時から12時を習字・算術の時間に、教員が子ども達の各席を巡視して、勉強を教えたのである。1時から2時まで読書の時間。子ども達に読書五経に至ればこれに着袴せしめ競争心を起こさせていた。また、優秀な子ども達にはを選抜して日給を与えている。
午後2時から3時まで学問所の各員による小学孝経等を、数人が順番になって講義を行っている。
ところで、毎月3度は、学頭が講義をする。この日は封主臨席、家老用人番頭これに列し、その他吏員聴聞を許す。外に2日を以て指南役学生等講義をなす事同じ。授業の終了は2時であるので生徒が自主的に輪講をしているのである。また、特別に、学頭の講義以外に、2日に指南役学生などが講義をしている。
講義は、平常時の時間割ではなく、特別に日程を定めて実施している。毎月四日と九日には小学が話され、生徒らが受講する。学校係が受講した生徒をテェックしていた。毎月二日の夜には小学の講義が番頭宅によって、行われ、老若を問わず自由に受講できた。しかし、十四歳、十五歳前後の若者は懈怠なく出が命じられていた。出席は番頭係がテェックした。教師達は春と秋に二回の試験が課せられ、知識の向上を絶えず求められたのである。
講義は、生徒ばかりが聞くのではなく、藩の封主、家老をはじめ官吏すべて、公開で行われている。島津家の重臣が列席して行われるおごそかな講義であった。学校の始まりは正月七日であり、この日は、書物講釈から行われたのである。
都城郷の明道館は、学問をする時間をきちんと確保したうえで、朝夕に武術の稽古をしたことを特記しておかねばならない。武術だけが行われたのではない。都城の郷学校では学問を特別に重視して、青少年の人格形成をはかっていたことを忘れてはならない。藩の財政を投じて明道館をつくり、そして、学問所の奉行を設け、また、一定の学問を指南する教師を配置したことは、都城の郷では、領主の奨励のもとに学問が重視されていたことを物語るものである。
明道館の夜学として、郷中教育を都城郷では行っていた。「家士小壮八歳より二十歳に至るをして、学校に夜学舎を開くことあり、其の初を知らず、天保の度より安政の初めに至り、番頭之督して、城内外方限を以て隊伍を定め、育士八名、教諭六名、伍長数名を置き、明徳館及び各自の居宅に、廻席の式夜を定め、読書輪読、武事を奨励し、専ら品行を方正あらしめ、士風振起せん事を要せり、是を称して郷中と云う」。
郷中教育は、都城郷を八組にわけ、八歳から二十歳までの子弟を一緒に学問をさせるものであった。この郷中教育を行っていくうえで、若者達の自主性や自治を尊重するが、番頭を長として、育士係、教諭、伍長の指導層がいたのである。都城郷では学問が組織的に行われていたのである。都城では、郷の中心である麓集落に明道館をつくり、郷内を8組にわけて、郷中教育を展開していたのである。
この郷中教育では番頭を筆頭にして、育成係、教諭、伍長という立場としてが指導と講義にあたっているのである。育師係や教諭が、具体的にどのような仕事をしていたのか興味あるところである。全ての郷中教育が、若者達の裁量で、自主的に読書輪読を行っていたのか。育師係や教諭などがいるなかで、若者が自主的な活動をしていたことを見落としてはならない。